愛家連の動き



令和7年
1月

11日(土)電話相談事例検討会、役員会 

13日(月祝)あした天気にな-れ・協賛

21日(火) あいかれんニュース新年号発刊 

22日(水) 第1回家族による家族学習会(西尾張B)
     家族による家族学習会⇒家族学習会

30日(月) 2月三役会 

2月
4日   (火)あいかれんニュース編集会議
8日  (土)電話相談事例検討会、役員会 

13日 (木)愛知県福祉協議会(参加)
13日 (木)第1回家族学習会(東尾張B)

17日 (月)愛知県との懇談会
26日 (水)第2回家族学習会(西尾張B) 

27日 (木)社会福祉団体委員会(参加)

3月
3日  (月)5県連会議 
8日  (土)電話相談事例検討会、役員会
18日 (火)精神障害者地域移行・地域定着推進協議会(参加)

20日 (木)第2回家族学習会(東尾張B) 

26日 (水)第3回家族学習会(西尾張B)
28日 (金)地方精神保健福祉審議会(参加)
4月

17日 (木)第3回家族学習会(東尾張B) 

23日 (水)第4回家族学習会(西尾張B)
5月

15日 (木)第4回家族学習会(東尾張B)
27日 (火)愛家連定期総会(ウインクあいち) 

28日 (水)最終回家族学習会(西尾張B)

19日 (木)最終回家族学習会(東尾張B) 

7月
6日  (日)第1回講演会「発達障害」(豊橋あいトピア)
9月
6日  (土)みんなねっと全国大会(京都テルサ)
10月
10日 (金)甲州東海ブロック大会岐阜(岐阜市文化センター)
19日 (日)おとなの発達障害(春日井市総合福祉センター)
11月
 9日  家族学習会(稲穂会)
 11日 知事表彰式 黒川会長、長谷川理事
 15日 代表者会議
 22日 ADFフォーラム
 23日 家族学習会(ぶなの木会)
12月
14日 家族学習会(稲穂会)
21日 家族学習会(ぶなの木会)
22日 あした天気になーれ 準備会参加
令和8年1月
11日 家族学習会(稲穂会)
18日 あした天気になーれ
18日 新春講演会 成年後見制度
20日 ピアサポートセミナー参加
22日 甲州東海ブロック会議
23日 精神保健審議会参加
25日  家族学習会(ぶなの木会)
31日 アウトリーチ講演会
2月
3日 愛知県との懇談会
6日 愛知県社会福祉審議会 参加
15日 家族学習会(稲穂会)
22日 家族学習会(ぶなの木会)
28日 家族学習担当者研修会
3月
4月
5月

 27日(水)愛家連定期総会(ウインク愛知)
6月
7月
8月
9月
10月
11月

  3日 甲州東海ブロック大会(愛知)
12月 

 

 アーカイブコーナーでは、今までに発行された「あいかれんニュース」の中で厳選された記事を紹介していきます。

あいかれんニュース107号 


<家族の声>
  親なき後を見据えて!取り組む統合失調症の家族 (前編)
  寄稿者:統合失調症当事者(59歳)の妹・むつみ会
(現在東京在住・月一度春日井市・実家に帰省)

  私が高校生の時、兄は大学在籍中に統合失調症を発病しました。今振り返ると、医師から病名告知を受けた時は大変ショックでした。よく分からない治らない病気であり、将来は病院で死を迎える運命なのかと思いました。医師からも将来は病院で生活することになるのだと言われ、そのつもりで家族は兄に接してきました。統合失調症の偏見から私自身も周囲に病名を言うことが出来ませんでした。とても苦しい現実を抱えて、親なき後生活をしていけるのだろうかと思った事もありました。難しい治らない病気と対峙する私たち家族は言い表すことができない無力感に苦しみました。私は20歳代になると東京へ移りました、環境を変えたかったのかもしれません。

  発症後12年間通院しながら兄なりに一生懸命仕事をしていましたが、やがて心が辛いと言って自分の限界を感じて退職し、両親が抱え込むように支えるようになりました。その後父は送迎を繰り返しながら隣の市にあるB型事業所に通わせるようになり25年が過ぎました。

  令和改元の日(5月)事業所から、兄の将来について家族で相談して結論を出すように言われました。可哀そうですが家族として出来るところまで頑張りますが、兄は独りで生活できないため病院生活となると結論を出しました。なるべく面会に行きやすい近くの病院に入院出来ればと話しあったことを覚えています。

  父が老齢になり、車での送迎が出来なくなったため、長く通い慣れた事業所を退所しました。兄の将来の生活について家族の間で不安なまま過ごしていました。 以前から父は私に「生前整理をしておきたい」と言われていたため、令和5年7月に父と一緒に基幹相談支援センターに伺いご指導頂きたいとお願いしました。直ぐに新しい就労継続支援事業所B型、訪問看護センターを紹介して頂きました。 近くの病院への転院を希望していたことを伝え、市内の病院に転院出来ました。家庭内では進まない事柄が専門的な担当者の言葉や声掛けにより大きく前進したのです。
  
  今回、相談支援センター、訪問看護、B型支援の方々がチームを作り検討した結果、家の近くにあるグループホーム入居が可能であると言われました。家族は大変びっくりし、病院生活以外の道があるのなら早速進めていこうと決めました。進めていく中で家庭内でも意見の分かれるところが沢山ありましたし、自分達家族だけでは分からないことが多かったです。一方で両親も高齢で福祉の世話になり、私も東京で暮らしているため、月に一度の帰省では時間に余裕がなく困っていましたので「まったなし」の状況でした。

  その後、入院がありましたが、今までの生活、薬の見直し、病院の見直しをしていき、兄は両親との生活を離れて、現在はグループホームで生活を始める事が出来ています。

アーカイブ :あいかれんニュース108号 

<家族の声> 

 寄稿者:せきれい会会員

娘と病の回復への16年目の挑戦

 

  昭和の最後の年に生を受けた娘は、19歳の誕生日を1ヶ月過ぎた土曜日、7月28日の蒲郡花火大会の日に、突然泣きだしたことが長い病への始まりでした。娘が、「おばあちゃんが、花火事故で亡くなったのに、お母さんがお父さんに花火を見せるのは酷すぎる!」と言って泣き出したのだ。

  その日をきっかけに娘の混乱が始まったように記憶している。娘は日常に何かがおかしいと訴えていたのだが、主人も私も心の病についてあまりにも無知でした。私は娘の空笑などから早い段階で統合失調症ではないかと、病院やクリニックに相談したこともありました。そこで空笑している患者を目の当たりにして、やはりこの病気と確信しました。主人に相談しましたが「そんな訳ない!」と激怒され、結局娘は1年後にパニックになり、救急車で近くの病院に受診する事となりました。ここで統合失調症と診断されました。

  最初の5年くらいはジプレキサの単体治療で、体重は少しずつ増えていきました。次第に幻聴、幻覚がひどくなり、平成25年より2年ごとに入退院を繰り返し、遂に平成30年に娘の脳で何かが起き、機能が失われ発作の様に喋れなくなり、何とか一言でも話して欲しいと、面会の部屋で願っていました。しかしそれは、喋り出したら止まらない独語の始まりでした。

 

  4度目の入院から、毎年入退院を繰り返すこととなり、同級生や従姉が結婚して出産を聞き、自分も赤ちゃんが欲しいとの思いから、お腹が大きくなることで想像妊娠の妄想で、過食に走り体重が95キロに届くところまでになり、病院で管理栄養士に月1回で食事の記録を取り、1食500kカロリ-を過ぎないよう気をつける毎日でした。更に症状も進み、3ヶ月毎に入退院を繰り返すようになり、入院で体重を減らし、退院するとまたリバウンドで過食の毎日でした。主治医からは、難治性で何も手立てはないと言われて悶々とし、これではずーっと入院のままになってしまうと途方に暮れる毎日でした。

 

  そんな中、愛家連講演会案内を見て、令和5年2月に県の精神医療センタ-の高木院長による「退院後の生活と最新の精神医療の動向」と題する講演会に出向き、 そこで奇跡が起こったのです。

  難治性の統合失調症にクロザリルが効くという情報はあったのですが、かねてから主治医も、とある病院に紹介状で行ったときも糖尿病があると使えないと断られていました。ところが高木先生の講演で、クロザリルを使い糖尿病も改善したとあったからです。私は講演後すぐに先生に事情を伝え、転院の方法を聞きました。クロザリル治療に猛反対していた主治医にも講演会資料を見せ、転院の許可を取り付けることができた時は本当に嬉しかった。そして県の医療センターに4月に転院することができ、6ヶ月間の治療が始まりました。一昨年から白血病を患っていた主人が一時退院の折には、娘に会わせるべく何度も高速でセンターに迎えに行ったものです。その主人も娘の退院後の姿を見ることなく昨年に帰らぬ人となりました。

 

  そして娘は無事センタ-を退院し、その後クロザリル治療をしている病院に転院となり、令和6年2月退院して、訪問看護先にもなっているグル-プホ-ムに入居しました。月曜夕方から土曜朝までそこで生活し、火曜~金曜の日中生活介護施設に通って生活リズムを整えています。土曜の朝~月曜夕方までは実家(私の家)で暮らしています。

 

  私は主人亡き後、草刈機や耕運機を習い野菜を作って、グル-プホ-ムから帰宅する娘のお小遣い稼ぎに産直に出荷して、また3月から週3~4日は学童保育の仕事に復帰して、週2回のプ-ルもストレス解消に続けています。

  私の母(大正生まれ、昨年12月コロナに感染し1月に急逝)に、耕運機を亡くなった主人の代わりに使っていることを伝えたら、開口一番「お前は幸せだなぁ、そんなことができるなんて!」と言ってくれたことが心の支えとなり、また、せきれい会で先にクロザリル治療をされていたNさんの助言もあって、今の生活ができていて、それはひとえに家族会活動のおかげと感謝の気持ちでいっぱいです。

 

  まだまだ娘は病気の波もあり、体重は66キロとなりましたが、一年半の長い入院生活で筋力が落ちていて、帰宅した折りに歩いたり、蒲郡ユトリ-ナに行ったり、たまに美術館に行ったりしながら、体力をつけるべく一日一日を大切に過ごすよう心がけています。